大坂の陣で活躍した後藤又兵衛の生涯や伝説などをまとめました。

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後藤又兵衛とは

後藤又兵衛は本来後藤基次という名前の武将で、豊臣秀頼に仕えていました。大阪城五人衆の一人に数えられる豪傑で、大坂の陣の講談をはじめ軍記物語などによく登場する人物です。歴史上に後藤又兵衛の名前がしっかりと現れるのは1586年の九州征伐の宇留津城攻めの当たりになってきます。1587年の長岩城攻めの際には瀕死の負傷を負うものの、命を取り留めて、1592年の朝鮮出兵にも従軍しています。

1600年の関ケ原の合戦で武功を上げて16,000石の所領を与えられ大隈城主となりましたが、主家である黒田家から1606年に出奔し、岡山藩の池田忠継に使えるも、黒田長政の「奉公構」の影響によって1611年からはしばらく京都で浪人として生活をすることになります。その後歴史に再び登場するのは、1614年に勃発した大坂の陣の際、大野治長の誘いによって大阪城に入場し、旗本頭として閲兵式の指揮を任され「摩利支天の再来」と称されるようになり、大阪城5人衆の一人に数えられるようになりました。



大阪夏の陣の際に乱戦の中10倍以上の敵と対峙して討ち死にをしています。後藤又兵衛こと後藤基次の享年は56歳です。
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後藤又兵衛の大阪の陣での活躍

後藤又兵衛は勇猛な武将として伝えられています。黒田二十四騎や黒田八虎の一人として数えられ、さらには秀頼四天王や大阪の陣では大阪城五人衆としても数えられている後藤又兵衛の、大阪の陣での活躍というのはどのようなものだったのでしょうか?



後藤又兵衛旗頭として天満の浦で行われた閲兵式の指揮を見事に采配し、仏教の守護神の一人である「摩利支天の再来」と称され非常に頼もしい存在と思われたようです。大坂冬の陣では、6000人の友軍を任されて上杉氏や佐竹氏らの軍勢と相対して主に鴫野・今福方面の守備を行い見事にこれを成し遂げています。そして翌年に起こった大阪夏の陣では、まず迎撃作戦の先鋒として2800の兵を率いて戦い、さらに小松山に布陣して相手方の奥田忠次を打ち取るといった軍功を上げています。



ですが、後続の軍が霧のために到着が遅れたために、相手方であった伊達家家臣片倉重長が率いる鉄砲隊などとわずかな手勢で対峙することになってしまいます。相手方は後藤又兵衛の軍の約10倍を超えていたとも言われています。小松山から降り突撃を敢行しましたが、この乱戦の中で討ち死にしています。
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後藤又兵衛と黒田長政が不仲になった理由

黒田家の家臣でもあった後藤又兵衛が主家である黒田長政と不仲になってしまい、黒田家を出奔するに至った理由というのはなぜなのでしょうか?後藤又兵衛と黒田長政はもともと幼少時代から兄弟のようにともに育った仲であり、黒田家の家老としても後藤又兵衛は遇されていました。



関ヶ原の戦いでは黒田家が筑前52万石を与えられたときに、又兵衛も軍功を認められて16,000石の高禄と大隈城を与えられるなど厚い信頼を受けていたと言われていますが1606年には黒田家を後藤又兵衛は出奔しています。この理由は、黒田家と不仲の細川家と後藤又兵衛が親しく付き合っていたからだと言われています。



1600年の関ヶ原の戦いにより、もともと豊前を領土としていた黒田家は筑前に国替えになりますが、この際この年の年貢を徴収し持ち去ってしまっています。黒田家に代わり領主となった細川家としてはこれが面白くありません。また、豊前の優秀な農業経営者を筑前に招くよう黒田家は画策しており、これについても細川家としては面白くなく、自然と対立構造になります。主家である黒田家と不仲である細川家と親しくしていたことにたいして黒田長政は怒り、後藤又兵衛と不仲になったといわれています。
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後藤又兵衛の名言

安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて活躍した武将、後藤又兵衛が残している名言とはどのようなものがあるのでしょうか?今の社会でも通用する名言が残されています。それが「次勝てばそれでよし」です。安土桃山時代から江戸時代というのは徳川と豊臣の最後の戦いがあった時代であり、戦国時代の終焉の頃になります。


小さな戦もあちこちで起こり、一揆なども頻繁にあった時代でもありました。その小さな戦いのすべてに勝利するということはやはりどのように優れた武将でも難しかったようです。後藤又兵衛もまた主家黒田家の黒田長政と共に一揆の鎮圧に行ったものの負けてしまったという経験を持っています。


ですが、この時に黒田長政が謹慎し頭を丸めたものの、後藤又兵衛は頭を丸めることもなければ平然としていたといわれています。その理由を問われた時に「今回は負けたが、次に勝てばそれでいい」と言ったと言われています。小さな負けのとらわれず、全体として最後に勝利していればそれで問題がないということであり、常に前向きに考える姿勢が必要ということでもあったようです。
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後藤又兵衛の伝説

後藤又兵衛伝説があるのですが、それは後藤又兵衛が大坂夏の陣において徳川家康を打ち取ったという伝説です。家康は逃げたのですが後藤又兵衛から浴びた傷が元で亡くなったという伝説です。



実際に徳川家康は大坂夏の陣の翌年に亡くなった事になっていますし、これが知れてしまうと世が乱れるためか豊臣秀頼を滅ぼした後に公表したという話です。話の信憑性はわかりませんが、その可能性が全くないとも言えないでしょう。



しかし、徳川家康の伝説としては、真田幸村に討ち取られていた伝説もありますし、関ケ原の時に討ち取られてしまい影武者が代行していたなどの説もあります。本当にところは本人しか分かりませんが、後藤又兵衛が余りにも武将として優れていたためにそういう伝説が作られた可能性もあるのではないかと思います。
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