賤ケ岳の戦いにおける逸話や人物を紹介します。

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賤ケ岳の戦いとは

賤ケ岳の戦いとは、後に豊臣秀吉と名乗る羽柴秀吉と織田家に長年仕えていた羽柴勝家との戦であり、現在は滋賀県長浜市にある賤ケ岳付近で起こりました。ことの始まりは本能寺の変にて織田信長が自害した後、清州会議にて信長の息子である信孝と孫である信秀のどちらが後継者となるのか揉めてしまい、信孝を推す柴田勝家と信秀を推す羽柴秀吉が共に激しい対立をするようになります。



その後、清州会議に参加をしていた丹羽長秀と池田恒興なども信秀を後継者にすることに賛成したことからそのまま決定となりましたが、その他にも領地の分配に関して不当なことがあったことから不満が募り、合戦へと発展してしまいます。

戦を仕掛ける前に両陣営はある程度の体制を整えるものの、当初から秀吉側に付いてしまう武将が多かったため、有利な条件の元で戦うだけではなく戦略的にも勝家よりも長けていたことのあり、合戦する前に勝家側から和平交渉を提示しても作戦の一部として見抜いていたことから、合戦を開始する時には攻めの体制で襲撃をします。戦力としても秀吉が上だけではなく、合戦の最中に勝家側についていた前田利家が離脱したこともあり、勝家側についていた武将たちは次々と降伏し勝家側は敗戦する結果となってしました。
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賤ヶ岳七本槍とは

賤ヶ岳七本槍とは賤ヶ岳の戦いにて羽柴秀吉側に付いていた武将の7人が功名を上げたことから、この様な言葉に例えられることになりました。

この武将の7人とは、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明であり、この他にも直属の若手武将であった石田三成や大谷吉継、一柳直盛や豊臣陣営の武将として活躍をし褒美を得た桜井佐吉、石川兵助一光も賤ヶ岳の戦いにて功名を上げていて、後に書物となった一柳家記にも名前が記録されています。



単純に賤ヶ岳七本槍のごろ合わせが良かったことから後世まで伝えられたことだが、当時は七本槍という言葉が良い例えではなかったこともあって、加藤清正はこの話が話題になることを嫌がり、福島正則は他の武将と同列に扱われたことを不満に感じていました。

賤ヶ岳の戦いにて功名を上げた武士たちは秀吉の天下取りだけではなく豊臣政権でも支えていたこもあり、自分に仕えている武将たちの名が世間に知れ渡ったことに秀吉自身は満足していました。しかし当の本人たちの中には複雑な気持ちだったこともあり、秀吉の死後に起こる関ヶ原の合戦では賤ヶ岳七本槍が分かれてしまい、徳川家康と前田利家のそれぞれの陣営にて対立して戦に参戦することになります。
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柴田勝家とは

柴田勝家は織田家に仕えていた武将であり、後に豊臣秀吉との権力争いで合戦に敗れて自害をします。元々は信長の父でもある信秀に仕えており、信秀が亡くなった後に信長とその異母兄弟であった信勝との後継者問題では、当時信勝の家老となっていたこともあり信長を殺害し信勝を後継者にしようと試みます。


しかし信長の策略に信勝がはまってしまい逆に殺害さたことから、信勝の子の養育係として信長の家臣になってしまったという経緯もあります。その後は養育係に徹するものの勝竜寺城の戦いなどで再び戦に参加し、武将として幾つもの戦で戦うだけではなく外交政策も担っていたことで、信長政権では筆頭家老にまで出世しました。


本能寺の変で信長が明智光秀に襲撃され自害されますと、後継者を決めるための清州会議では勝家が推していた息子の信孝と秀吉が推していた嫡孫の秀信とで揉めてしまうだけではなく、後継者が決まっても遺領配分に関しても不満があったことから、勝家と秀吉は権力抗争を起こしてしまいます。清州会議後に勢力が拡大した秀吉に対抗しようと織田信孝と一緒に戦うものの、秀吉の手腕に勝てなく信孝は屈服し、勝家も賤ヶ岳の大岩山砦にて戦を仕掛けたのだが敗れてしまい、最後は北ノ庄城にて自害をしました。
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佐久間盛政とは

佐久間盛政は織田家の家臣であった佐久間盛次の子供として生まれ、1568年の観音寺城の戦いに初陣を果たします。この戦だけではなく槇島城の戦いも参戦して活躍をしますと、叔父であった柴田勝家が後に織田信長から越前一国を与えられますと与力として配置され、北陸での一向一揆で戦をした時には目に留まるほどの活躍が見られたことから、信長から感状を賜れました。越後にいた上杉謙信が南下してきた時には信長の命令で加賀に向かい、砦を築いた後に加賀の金沢城の城主になることによって支配権を与えられるほどまでに出世をしました。



本能寺の変では勝家に従って上杉軍を攻撃していたのだが信長が亡くなってしまい、激怒した勝家が明智光秀を討伐しようと軍を率いて上洛しようとしたのだが、留まらせるように説得します。


賤ヶ岳の戦いでも豊臣秀吉と対立した柴田勝家に仕え、勝利を得ようと急襲作戦にて戦を仕掛けて最初は優位に立つものの、豊臣軍に援軍が来てしまったために勝家との連絡することもできずに孤立して大敗する結果となってしまいました。加賀に戻った後で捕えられたものの、秀吉は盛政の武将としての技量を知っていたことから家臣として誘うのだが断ってしまい、槙島まで連行されてしまい斬首の刑で亡くなりました。
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