徳川家康の元で活躍した徳川四天王を知っていますか?

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井伊直政とは

井伊直政は徳川家の家臣であり、後に近江国佐和山藩の初代藩主、井伊氏の当主であります。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑であり、徳川家の天下取りの際には本多忠勝や榊原康政などと共に家康に仕えた武将です。



父でもある井伊直親は今川氏の家臣であり、桶狭間の戦い後に謀反の疑いで今川氏真に殺害され、叔父でもあった井伊直盛も桶狭間の戦いにて亡くなった経緯もあることから、後に家康に見出され小姓として仕えるようになり、幾度も合戦に参戦し活躍をすることによって徐々に武士としての頭角を現すようになりました。本能寺の変では家康の伊賀越えに仕え、天正壬午の乱では北条家との徳川側の使者として交渉を担当し、その後は徳川重臣の一端を担うまでの士大将に出世しました。家康だけではなく、豊臣秀吉も直政の武勇伝や政治的な手腕に目が留まり、従五位下に叙位させるほど高く評価をしていました。



政治的な手腕では秀吉側が死去した後に、豊臣側についていた武将を家康側の味方に付いてもらおうと交渉を担当したのも直政であり、武将としても秀吉からの信望があった黒田孝高・長政父子を盟約するまでの技量があったことから、徳川家が天下を取ったあとも幾つかの外交を担当している。尚、2017年大河ドラマのおんな城主直虎では主人公である井伊直虎に育てられた事も有名ですし、井伊直政の子孫には井伊直弼がいます。桜田門外の変で死亡してますが、幕末に近くなってきていても井伊家が幕府に対して大きな影響力を持っていた事が分かります。
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本多忠勝とは

本多忠勝は徳川家の家臣であり幼少のころから家康に使えていたことから、徳川家の功労者として徳川四天王や徳川十六神将や徳川三傑の1人に含まれています。松平家の安祥譜代でもあった本多忠高の子供として生まれ、小さいころから家康に使えていました。元服するのと同時に桶狭間の戦いで参戦し、家康が今川家から独立した後も主君として仕えていた経緯もあり、三河一向一揆では親せき関係でもあった本多家と戦うことになります。



家康は忠勝の家系や活躍ぶりを知っていることから、自らの城がある下に住まわせるだけではなく、忠勝が窮地に立った際にも軍を率いて救い出すこともしていました。そういう恩情もあったことから、小牧・長久手の戦いで苦戦していると知ると数少ない兵を集め秀吉の前に立ちはだかり、豊臣軍が手を出せないくらいに豪快な振る舞いを見せたことで家康を窮地から守るだけではなく、忠実心と豪快さに豊臣秀吉や織田信長は称賛し刀まで賜ったこともありました。関ヶ原の戦いでは家康軍の元で子の忠政と共に従軍して活躍をした後、自らの陣営でもある桑名藩を確立するために城郭を修築や東海道にある宿場の整備しました。



晩年は、病に掛かっていたことを機会に忠政に家督を譲り、隠居生活をして63歳で死去しました。尚、大河ドラマ真田丸では豪胆な人物として描かれていました。尚、意外に思うかも知れませんが、本田忠勝は立派な武将になりたければ格好から入れと言っています。この言葉が最近は再評価されています。
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榊原康政とは

榊原康政は徳川家康の家臣の1人で、幕府が開く前から家康に仕えて活躍したことから、後に徳川四天王や徳川十六神将や徳川三傑に入っています。榊原家は三河仁木家の一族であり、分家筋として松平家の譜代家臣でもある酒井忠尚に仕えていた榊原長政の子供として生まれます。



元々読み書きなどが好きであったことから家康に見いだされて、三河一向一揆に初陣を果たすだけではなく武功を賞し、褒美として家康が康の字を与えたことから以後は康政と名乗ります。元服後は同年代の本多忠勝と共に旗本として家康の側近の位置に立ち、姉川の戦いや長篠の戦いなど数々の戦に参戦するだけではなく、本能寺の変では羽柴秀吉の甥でもある秀次の軍を壊滅状態へと追い込むまで活躍をしました。



関ヶ原の戦いでは秀忠の軍に従軍し、家康の指示によって出陣するはずが荒天によって遅れてしまい、家康は激怒したのだが康政がとりなしたお蔭でおとがめがなかったので、秀忠は感謝して後に病で倒れた際にも康政の元に見舞いに行くことありました。関ヶ原の戦い後は他の家臣と比べ冷遇されたこともありましたが、後に老中に出世し館林藩にいた時には水戸に加増転封の打診を断った経緯もあり、死去するまで家康に対して忠誠心を守ったということが伺えます。
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酒井忠次とは

酒井忠次は徳川家の家臣の1人で、三河の武将でもあります。松平家の家臣でもある酒井忠親の子として生まれ、元服後には家康の父でもある松平弘忠の家臣として仕えていたこともあり、徳川家康がまだ竹千代と名乗っていた幼少期に、今川義元の人質として駿府へと向かう際に同行する家臣の1人でもありました。



その後、竹千代から今川元信、元康と名前を替えて、今川義元に仕えて武将をしていた時代にも忠次は配下として仕えており、共に当時福谷城で占拠していた柴田勝家の元で戦をし敗走させる状況まで追いつめる手柄を立てました。桶狭間の戦いや姉川の戦いなど家康が主に指揮を執る数々の戦にて功績を出すだけではなく、他の陣営との交渉する際にも使者として赴くこともあったことから家康からも厚い信頼を持ち、位も家老、重臣、従四位下・左衛門督と出世することになります。



その後、高齢であったのと目の病気を患ったことで、息子でもある酒井家次に家督を任して、豊臣秀吉から世話係と1000石のを貰い、京にて隠居します。祖先を辿りますと松平家とは親せき関係であり、忠次の正室も家康の叔母であったことから、他の武士たちとは違った強い絆があったことが分かります。
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