源義経の生涯について出来事をピックアップしてみました。

源義経の生涯について出来事をピックアップしてみました。

睡眠と戦国武将について学ぼう【パワーニッポンプロジェクト】

↑ページの先頭へ
枠上

源義経とは

源義経とは平安時代に活躍した武将の1人であり、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝とは異母兄弟にあたります。源義朝の子供として生まれ、平治の乱にて義朝の軍が敗れて戦死したことから幼少期に鞍馬寺に預けられることになりますが、後に平泉へと流れて奥州藤原家の元で過ごします。


兄頼朝が義朝の仇として平氏を倒すために兵を連ねて治承・寿永の乱を起こし、戦に加わって頼朝の指揮のもと、一ノ谷と屋島と壇ノ浦の戦いで平氏を追い詰めて勝利するまでの手柄を立てます。合戦によって平氏を滅ぼし頼朝が鎌倉幕府を開きますと、今度は武将としての地位を揺るがす材料にもなってしまったことから、頼朝は義経を鎌倉から入れさせないように命じるだけではなく領土まで没収されてしまい、京へと戻ることになる。


しかし頼朝は義経を追討をするために軍を率いて鎌倉から西へと向かい指揮を執るものの、義経を慕っている貴族や院が逃亡に手を貸して、頼朝の包囲網を掻い潜って奥州へと逃げ込む。奥州には藤原家の勢力があり最初は義経を匿っていたのだが、頼朝は圧力で藤原家を弱体化するだけではなく去ってしまった義経を追撃するように命じて、藤原家と戦するのが嫌だった義経は自害することになり31歳の若さで亡くなりました。
枠下 枠上

壇ノ浦の戦いとは

壇ノ浦の戦いとは、1185年に現在の山口県下関市にておこなわれていた合戦であり、源氏が平氏を滅ぼすまでに至って後に源平合戦ともいわれることになりました。ことの始まりは当時政権を握っていた後白河天皇ともう一つの勢力である二条天皇との対立が平治の乱へと発展し、平氏が源頼朝の父であった義朝を殺害するだけではなく、この戦によって頼朝自身も島流しの刑を受けることになりました。



平治の乱にて仇を取るくらいの深い恨みを持ちながら尚且つ全国統一を図るために、鎌倉幕府を開いた後に頼朝が軍を率いて平氏の領土でもある瀬戸内海へと向かいました。だが瀬戸内海に向かう道中で兵力が不足していたのと拠点でもあったことから、海の上での戦いでは源氏が不利になってしまうものの、海上での潮の流れが変わってしまうと義経の戦略によって戦況が一変し、平氏が追い込まれる状況へとなってゆきます。



後に平氏が敗戦しますと戦に参加をした者だけではなく、一族全員を殺害するか捕えるかをして政治勢力がなくなるまで追いつめて滅亡することになりました。しかし壇ノ浦の合戦後にも平氏の名が継がれたことから、後に書かれていた書物とは異なり、一族自体はなくなってはいなかったのです。
枠下 枠上

源義経と源頼朝が仲が悪くなった原因

源義経と源頼朝は共に義朝の子供であり異母兄弟という間柄でありながらも、義朝が平治の乱で敗れたこともあり、義経が頼朝の軍に入るまでは別々の地へと過ごしていました。頼朝は父を殺害した平氏の仇を取るために関東を制圧し、鎌倉を本拠地にして駿河、京へと向かい道中にて戦を仕掛けて各地制圧をする。



そこで義経が頼朝の軍に入って共に平氏を対峙します。戦は源氏軍が勝利をして頼朝が幕府を開くまでに権力を持つようになりますと、今度は自分の地位を守るためにライバルを蹴落とすことになりますが、その中の1人として義経が上げられます。その理由としては合戦中に頼朝の指示が出ていないのにも関わらず勝手に武将を動かしたり、政治をするにおいて都合の良い人物まで自害へと追い込むこともあっただけではなく、他の武将や法皇からの人望もあったことから邪魔な人物として見るようになってきました。



頼朝は義経を鎌倉に近づかせないだけではなく、権力を持たせたくなかったことから領土も取ってしまうことになり、最後には軍を率いて自害するまで追い詰めました。義経は頼朝の嫉妬によって度重なる仕打ちがあったことから、最後は戦わなくてはいけない事態へと向かってしまいました。
枠下 枠上

源義経生存説とは

源頼朝が鎌倉幕府を開き全国統一を図ろうと目論むのだが、その計画の中で義母兄弟でもある義経の存在が邪魔となる。壇ノ浦の合戦では、義経は頼朝共に軍を率いて父を殺害にまで追いつめた平氏を倒そうと手を組み滅ぼしたのだか、一部の武将や法皇からの信頼を集めたことから頼朝の地位を揺らぐ存在となってしまいます。



頼朝は義経を鎌倉に入る許可を与えないばかりか領土を取り、自分から離れた所へと向かわせるものの当時京にて政権を握っていた後白河院が頼朝が欲しがっていた位を義経に継承させると動き出したことから、軍を率いて京へと向かい追討することになります。義経も反撃するものの兵力としては頼朝に敵わず、貴族や院の協力によって頼朝の包囲網を潜り抜けて奥州藤原家へと逃げ込むものの、頼朝の圧力によって藤原泰衡も根負けして義経を殺害することになります。



しかし泰衡は父親でもある秀衡の遺言もあったことから、実は殺害しないで現在の北海道へと逃げ込んだのではという説が残っており、室町時代の書物でもある御伽草子の中で、義経が青年時代に北海道に渡って色々な体験をすると物語っていたことから、のちにアイヌの王になったのではないかと推測があることから、義経の生存説が幾つか出ていることが分かります。
枠下
枠下
枠上

コンテンツ

枠下
Copyright (c) 2017 睡眠と戦国武将について学ぼう【パワーニッポンプロジェクト】 All rights reserved.